ショートストーリー

夫に履いたままのブーツを磨かせる妻

窓の外では、今日も「女性社会振興局」の広報車が、女性たちの社会進出と、それを支える男性たちの「美徳ある献身」を讃える歌を流している。この街で、男性が一人で歩くには「保護者」たる女性の許可証が必要だ。職はなく、財産権もなく、ただ家庭という名の檻の中で、所有者である妻に仕えることだけが、私たち男性に残された唯一の生存戦略だった。

「ねえ、まだ終わらないの?」

冷ややかな声が頭上から降ってくる。

リビングのソファーに深く腰掛けた妻は、長い脚を組み、私の目の前に右足を突き出している。漆黒のロングブーツ。上質な牛革が、部屋の照明を鈍く跳ね返している。

私は床に膝をつき、必死で手を動かしていた。妻はブーツを脱ごうとはしない。履いたまま磨かせること。それがこの家における、そしてこの女性上位世界における「主従の儀式」だからだ。

あまりの屈辱に耐えきれず、せめて脱いだ状態で磨かせてもらえないだろうかと何度懇願したことだろうか。しかし、「形が崩れるのが嫌だって言っているでしょう」とその度に一蹴された。

そればかりか、執拗な要望は、彼女の怒りを買い、「あなたの顔が映るくらい、ピカピカにして」という無理難題を出される始末となった。

それは、しかしどう考えても物理的に不可能だった。革の表面を鏡面のように仕上げるには限界がある。だが、反論は許されない。

彼女がその気になれば、私を「社会適応欠格者」として更生施設へ送るか、さもなければ凍てつく路上へと放り出すことだって簡単だ。男が家を失うことは、この女尊男卑の世界ではすなわち死を意味した。

「……はい、奥さま。精一杯、努めます」

できるできないに関わらず、私たち男はまず忠実な行動をもって女性たちに忍従する立場であることを示さねばならない。

私は震える手でポリッシュを取り、布に馴染ませる。艶を出そうと懸命に励むが、素材の種類に寄るものだろうか、焦れば焦るほど、革の表面はむしろ曇っていくような気がした。困惑し、救いを求めるように彼女の表情を伺う。

「奥さま、すみません、やはり、顔が映るまでは、とても……」

「あたし、冗談で言ってるんじゃないからね」

妻の瞳には、愛など微塵もないように見えた。そこにあるのは、どこまでも冷徹で嗜虐的な光だ。彼女にとって、私は夫ではもちろんなく、もはや男でも、いや、人間でもないのかもしれない。少なくとも私に人権があると認めるならば、こんな非情な命令を出すわけはない。

しかしそんなことを思い悩んでも仕方がなかった。とにかく、状況を少しでもよくすることに集中しなければ……。

「……どうか、奥さま。これくらいで、お許しいただけませんでしょうか……」

まずは、誠意を示し、許しを乞い願うことである。

視界が滲んだ。情けなくて、惨めで、耐えがたい屈辱に涙がこぼれ落ちそうになる。すると妻は、私の顎をくいと持ち上げ、その顔をじっと覗き込んできた。そして、唇の端を吊り上げる。

「嘘泣き? また」

彼女の手が、私の薄くなった頭髪を容赦なく掴み上げた。

頭皮に鋭い痛みが走り、思わず声が漏れる。

「ひいっ……」

「あたしを騙そうってのか?」

「いえっ、そんな……はううううっ……ひっ……」

「許して欲しいなら、もっと本気の涙を見せなさいよ」

低く、突き放すような声。私はただ絶望を抱き、再びブーツに顔を伏せるしかなかった。

「ブーツの筒に、お前の顔が映るくらいに艶を出せって言ってるのよ。何度も同じこと言わせるな、この能なしがっ」

「あぁ……どうか……奥さま……」

「それができないなら……」妻は赤いルージュの端に鋭い笑みを浮かべる。「そうね」

彼女は私の鼻先に着かんばかりに靴底を突きつけた。

「じゃあ、ここ舐めて。だったら勘弁したげる」

頭の中が真っ白になった。外を歩き、泥や埃を吸い込んだ靴底。それを舐めろと言うのか……。

いくらなんでも……私にだって、まだ多少なりとも男としてのプライドが残っている。

ここは反論があってもいいのではないか。

――お言葉ですが、恐れながら……

頭の中で、命令を受け入れられない趣旨の言葉が渦巻いた。

だが、声にはならない。拒絶などしようものなら、明日の居場所はないのだ。

即答しない私に代わって、妻が口を開く。

「艶は出せない、靴底は舐めれない。いったいあんたに何ができるの?」

妻の声にいら立ちが混じる。彼女のストレスは、いつもより高いレベルに達しているようだ。

このままではまずいと思ったが、時すでに遅しだった。

「じゃあ、殴らせて」

唐突で、あまりにも不条理な要望が、彼女の口から飛び出してしまった。

しかし、その時の私には、それが唯一の「慈悲」のようにさえ思えてしまった。靴底を舐める屈辱に耐えるより、身体的な痛みで全てを終わらせてくれるなら、私としてはそちらを選びたい。

「……わかりました。その代わり、それでどうか堪忍して」

絞り出すような声でそう告げると、妻は満足そうに微笑んだ。

次の瞬間、乾いた音が部屋に響き、私の視界は大きく歪んだ。

――うぅ……

頬に走る熱い痛み。

私はまた、震える手でブラシを握り直した。

これで許されたと思っていたのだ。しかし、次の彼女の言葉に全身は凍り付く。

「それで、終わりなんて思ってないよね? さぁ、立って」