
わが家には、成文化されていないが、何よりも重い鉄の掟がある。
「妻の帰宅時には、三つ指を突いて出迎えること」
時代錯誤も甚だしいこの儀式が、私に課せられた絶対的な義務だ。
和室ではなくフローリングの玄関であっても、私は膝を突き、両手の三本の指を床に揃え、頭を垂れて彼女を迎えなければならない。それが、この家における彼女の絶対的な権威の象徴だった。
その日、妻は会社の同僚である二人の女性を連れて帰宅することになっていた。
前日から、妻はその同僚たちに「私の城を見せてあげる」と得意げに話していたようだ。
彼女にとって、この「三つ指の出迎え」は単なる命令ではない。自らの支配力がどれほど徹底しているかを、外部の観客に見せつけるための証なのだ。彼女は、私がどれほど従順で、いかに「恐妻家」として完成されているかを自慢したくてたまらないようだった。
私はキッチンで、彼女たちのために用意するオードブルの盛り付けに追われていた。
「あと五分もすれば着くわ」というメッセージを受け取り、心臓の鼓動が早まる。シャンパングラスを磨き、カナッペを皿に並べる。その最中、ふとした不手際でソースをこぼしてしまった。私は慌てて布巾を手に取り、床を拭った。
その一瞬の遅れが、私の運命を決定づけた。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音が響いた。 心臓が跳ね上がる。私はすべてを放り出し、廊下を走った。しかし、私が玄関に滑り込んだとき、すでに扉は大きく開かれ、妻と二人の同僚は土間に立っていた。
「……ただいま」
妻の声は、驚くほど低く、冷ややかだった。 私はその場に膝をつこうとしたが、もう遅かった。彼女が望んでいたのは「開いたドアの先に、すでに頭を垂れて待機している夫」の姿であり、慌てて駆け寄ってくる無様な男の姿ではなかったのだ。
「あら、マネージャー、お出迎えが間に合わなかったみたいね」 同僚の一人が、面白がるように呟いた。その言葉が、妻のプライドに最後の一太刀を浴びせた。
「……あなた。私のメンツを潰すつもり?」
妻の瞳に、激しい怒りの炎が灯る。次の瞬間、私の視界は火花が散ったような衝撃に包まれた。 乾いた音が玄関に響き渡る。右の頬、続いて左の頬。往復で浴びせられるビンタは、加減というものを一切知らなかった。
「よくも、このあたしに恥をかかせてくれたわね」
彼女の手掌は止まらなかった。十発、二十発。私はなす術もなく、ただその場に跪き、激しい衝撃に耐えるしかなかった。やがて、鼻の奥で熱い液体が動く感覚があり、ポタポタとフローリングの木目に赤い斑点が広がった。鼻血が滴り落ちても、彼女の猛攻は終わらない。
私は、同僚の女性たちの視線に、かすかな救いを求めて目を向けた。 しかし、そこに同情の二文字はなかった。彼女たちは私を哀れむどころか、顔を紅潮させ、まるで格闘技の好試合でも見ているかのように、リズムに合わせて小さく手を叩いて喜んでいたのだ。
「すごいわ、本気なんですね」
「さすがです、マネージャー」
残酷な称賛の声が、私の耳に突き刺さる。
さらに、物音を聞きつけて二階から娘たちが降りてきた。彼女たちは、鼻血を流して跪く父親の惨めな姿を、軽蔑とも興味ともつかない冷淡な眼差しで覗き込んでいる。
――ああ、自分のことをどう思っているのだろうか……
頼りにならないのはもちろんのこと、もはや守るべき対象でもなく、単なる家の備品、あるいは壊れかけた玩具のように思っているのかもしれない。
ようやく妻の手が止まった。彼女は荒い息をつきながら、勝ち誇ったように私を見下ろした。
追加の暴力を恐れる私は、「お、奥さま、ご指導いただきありがとうございます……」と涙声で頭を下げる。
妻が鼻で笑い、娘たちや妻の同僚からは失笑が漏れた。
私の頬は腫れ上がり、視界も朧げだ。だが、彼女の「ショー」はまだ終わっていなかった。
「……いつまでそこに突っ立ってるの。見苦しいわね。早くブーツ脱がせてよ」
それは、さらなる屈辱の命令だった。 私は鼻血を袖で拭い、同僚たちの嘲笑と娘たちの冷え切った視線に晒されながら、妻の足元に這いつくばった。 彼女が履いているのは、膝下まである本革のロングブーツだ。ファスナーをゆっくりと下ろし、細い踵を支えながら、慎重にそれを引き抜いていく。
「ついでに、明日の朝までに磨いておきなさいよ」
そんな追い打ちの言葉が聞こえてこないことを、私は心の底から願い続けていた。
――どうか、奥さま……これくらいでご容赦くださいませ……
頭上では、女性たちの笑い声と侮蔑の言葉が続いていた。